邪神記・第一章


第一章 明星


「哲学者ヘラクレイトスによれば、地球は一〇八〇〇年周期で滅亡してるんですって、だからアトランティス沈没から数えたら、次の滅亡は一九九〇年代ってことなのよ」
 明星千尋の恋人、室井登子に言わせれば、チェルノブイリの原子力発電所事故も、湾岸戦争も、すべてが過去に予言されていたとなる。
 最近の彼女は、日本人とユダヤ人の先祖が同じという『日ユ同祖論』や、間もなく『日本は海中に沈み、かわりに一二〇〇〇年前に没したアトランティス大陸が浮上する』説に傾倒しており、部屋には伝説の大陸が描かれた古代地図まで貼ってあるのだ。
 二十世紀末の現在、人間は破滅を望んでいるのではないかと思われるほどの、予言や、宗教ブームだ。
 そんなにこじつけ、辻褄を合わせて待っていなくとも、生の目的が死であるように、  いずれ、人間は死んで亡るようにできているのに…と、明星千尋は思ってしまう。
「ノストラダムスは、黒ヒゲの男が人質をとり、兵器に頼った戦争を仕掛けてくると湾岸戦争を予言したし、チェルノブイリの原子炉事故だって、『第三のラッパが吹き鳴らされると、苦よもぎ(ロシア語でチェルノブイリ)とよばれる星が川に落ち、その水を飲んだ者が多数死ぬ』とヨハネの黙示録で予言されていたことなのよ…」
 いい加減うんざりした明星が、「どうせ、一九九九年の七の月に、空から恐怖の大王が降ってきて、人類は滅亡するんだろう?どっちが早いか遅いかの差じゃないか…」などと反発しようものならば、登子の術中にはまったも同然なのだ。
 延々と、彼女の予言解釈を聞かされるはめになる。
「眠れる予言者エドガー・ケーシーはね、一九九八年までに日本が海中に沈むって言ってるのよ。実際、ここ二年くらいの間に日本ではマグニチュード7以上の地震が五回もあったでしょう?。それにね、一九二五年に関東大震災を引き起こした活断層の活動周期は七十年なんですって、だからもう、いつ東京に大地震が来てもおかしくないのよ」
 まるで、待ち望んでいるかのように、話しだすと、彼女の瞳は輝きはじめる。
「差し迫っては、一九六二年二月五日に、中東でイエスと同じ経歴を持つ、この世を破壊させる地獄の獣が生まれているの。そいつは今は身を潜めてるけど、直に行動を開始するとJ・ジェクソンが予言してるわ。彼女は予知で、ケネディ大統領暗殺や、一九八七年の超新星出現も当ててるんだから、本物なのよ」
 黙って立たせておけば、頭の良さそうな美人でもある室井登子なのだが、この手の話に夢中になってくると、不思議なまでに、美しさや、女らしさというものが失われ、感じられなくなってくる。
 特定の宗教を狂信する信者の姿を客観的に見ると、滑稽だと思えるのに似ていて、彼女の場合も近いものがあるのだ。
 だが、それだからこそ、自分が彼女に選ばれたのではないかとも勘繰ってしまうアケボシには、時に複雑な心境になる。
「どうせ俺は、登子にとって、有事の際には守ってくれる腕力だけの男で、心の恋人はノストラダムスなんだろうな?」
 二人で快楽を分かち合っている時ですら、もしかしたならば登子は、別の世界に想いを馳せているかもしれないと、アケボシは揶揄い半分に言ってみたりすることがある。
「なによぉ、それは…」
 すると、登子はムキになって否定しはじめるが、予言者のノストラダムスやエドガー・ケーシー、彼等のことを話す時に、異常なほど輝く表情をみるにつけ、アケボシは納得せざるを得ないのだ。
 誰かを好きになったら、その人の一番でありたいと思うアケボシには、やはり面白くないのである−−。
 明星千尋にとって、二歳年上の恋人、室井登子は特別の存在だからだった。

 登子のマンションから駅へ行く途中に、小さな公園があった。
そこの樹齢六〇〇年になる枝垂れ桜が、四月も終わろうとしているこの時期に満開だというので、二人は桜を見てから駅へ向かう途を採ったのだ。
 公園に入って行くと、直ぐに、あまやかな香りが漂ってきた。
 桜の花香だと気づくのは、注連縄に囲まれた、五段に流れ落ちる滝のように見える枝垂れ桜を前にした時だった。
 今まで、アケボシは桜の花に香りがあると知らなかった。
 その上に、迫りくる夕闇を、花炎でほの白く照らす桜には、どこか、妖気漂う美しさがあり、思わず、気圧されていた。
「すごいな、こんな木が、いまだ東京にあったなんてな」
 年々花勢が衰えるばかりだったのに、今年に限って、燃え尽きる前の灯芯が、最後の輝きを放つかのごとく、花を咲かせたのだ。
「この桜ね、なんどか枝打ちしようとしたんだけど、その度に祟りみたいなことがあって、とうとう伐れなかったって聞いたわ……」
 枝垂れ桜は、神が依代する木だといわれる。
 依代とは、憑代とも書く。
 神霊が降臨して一時的に取り憑く、現世との媒体のことだ。
 震えるように散ってくる花びらを掌に受けとめ、夢見るように登子が言った。
「桜に魅入られるのは、死に魅入られるのに似てるのよ。だから、日本人は、桜に心騒がされるのよね…」
 それは、切腹という死の美学を極めた民族ゆえの業であるかも知れない。アケボシも、これ以上桜を見ていると、心の均等を失いそうな気がしてきた。
 登子も同じだったのか、二人は、注連縄で囲まれた枝垂れ桜の前を離れて見晴し台の所へ行って見た。
 クラクションの音が、風に乗って聞こえてきた。
 黄昏時の、物哀しくなるような色彩に囲まれて、行き交う人々のざわめき、店頭の灯、絶え間ない騒音、染みついた街の臭いがたちのぼってくるのだ。
 街は、夜のはじまりに、活き活きとしている。
 桜の樹の元で感じた寂しさとは異質な、生への活力がそこには漲っている。
 目の当たりに見て、この日常が滅びるなどと、信じられなかった。
 だが、そう思った途端に、なぜか泣きたくなるような懐かしい気持ちが込みあげてきて、アケボシは、そんな自分に狼狽した。
「ねえ、ちょうど今時のことを『誰そ彼時』と言うのよ」
 アケボシとはまた別の思いに浸っていた登子が、言い出した。
「たれそかれどき?」
「薄暗くなって、すれ違う人間と、魔物の区別がつかなくなる時刻ってことよ」
 また登子のお得意の方向へと話が進むのかと、アケボシは苦笑した。
「黄昏時は、妖怪へと零落した神々が丑寅の方向から人間界へとやってくる逢魔ケ時とも言われるの。ちょっと不気味でしょう?」
 彼女は、少し離れた所にいるアケボシに向けて右手を差し出した。
「でもあたしは、今の時間が好きよ。なんだかとても懐かしいじゃない。子供のころの記憶が甦ってくるような、ううん、もっと、ずっと遠い昔の記憶が甦ってくる不思議な感じがしちゃうのよね。ちょっぴり不安にもなるけど…」
「ああ、俺もだ…」
 アケボシも不安を感じていたので、腕を伸ばして登子の手を掴みとった。
 あたたかい体温が伝わってきて、それだけで、二人とも、安心するものを得た。
「薄暮のころに人間界にやって来た魔物たちは、明けの明星とともにまた異界へ戻って行くのよ。明星と書いてアケボシと読ませる名字は、なにか曰くありそうよね…、明星は、金星でもあるんだし…」
「美の女神アフロディテか?」
「そ、海の泡から生まれた最高の美女にして、愛欲の神よ」
 光り輝く星である金星には、美の女神の名がつけられている。ギリシャ語でアフロディテは、ローマでは、ウェヌスとなり、英語読みでヴィーナスとなるのだ。
 他にも、一際強い輝きをもつ金星は人々の心を虜にする星であり、様々な呼び名がある。
 長庚、あるいは、中国では太白星。
 メキシコでは、トラウィスカルパンテクトリ(曙の王)とも呼ばれ、旧いマヤの神話にある、空に昇ったケツァルコアトルの心臓ということになっているのだ。
 堕天使ルシファーを、金星に譬える場合もある。
「それにね、ヴィーナスは、処女を喪っても、海水で身体を洗うと、ふたたび処女に戻るんですって、だからって別にいいことがあるとは思えないけど…ね。まあ、バージンがお好きなオヤジ連中の創造そうなことよね」
 破滅の予言を信じているのに、登子は、神話を信じていないのか、茶化して言い、声を立てて笑った。
 笑いながら、登子が繋いだ手に力をこめてきたので、応えて、アケボシも彼女の手を握り締めた。
 自然と身体が触れ合い、公園の中に誰もいないのをいいことに、二人は、小さく、掠めるようなキスをした。

第二章へ進む


メニューページに戻る